空想少年通信

素人物書きのつれづれブログ。

写真展とzine展と

見たいものがいくつかあったので、まとめて見に行ってきた。

西麻布のAKAAKAってところでやってた小野啓の写真展と、東京オペラシティでやってた梅佳代の写真展。そして、銀座でやってたzine展。

小野啓の写真展は高校生のポートレート。「桐島、部活やめるってよ」の表紙写真の人。写真に撮ってもらいたい高校生を募集して、笑わないでカメラを見て撮るという感じで写ってる。笑ってないから、視線の力がものすごくて、写真家と勝負しているような感じの子が多かった。ときどき、ものすごい勇気を出して応募したんだろうなっていう子がいて、なんていうか精いっぱいがんばっているような、すがるような、そんな感じに見えた。

そんな写真群を見ながら、この子ら、今どうしてるんだろう、って思った。ここ10年くらいのうちの写真だから、もしかしたら今は社会に出てる子も少なくはないと思うのだけど、大人が思うような普通の子の写真はあんまりなくて、とんがったような、不安定なような子が多いと思ったから自然とそう思ったのだけれど。

青い光

青い光

今、新しい写真集に向けて、先行予約というかクラウドファンディングというかそういうのをやってて、申し込むと一冊は学校(か個人、指定してもいいしお任せもできる)に贈られて、一冊は自分のところに来るらしい。どうしようかなぁって思って見に行ったのだけれど、たぶん申し込むと思う。

 

梅佳代の写真展は身近にいる人の写真が中心。笑ってたり、変顔をしていたり、ポーズとってたり、スナップ写真みたい。小野啓の写真が勝負だとしたら、梅佳代梅佳代が(もしくは梅佳代を)好きだっていうのが表れてる感じがする。取る人が違うと同じポートレートでもこんなに違うのかって思った。男子は阿呆だけど、女子も阿呆なんだなぁ、とか、能登の学生、みんな可愛いじゃん、とか(笑)。そこに精いっぱいがんばるとかすがるとかそんなのはなくて、「えー、写真? カッコよく撮ってよ」「どうかなぁ。保証はないよ(笑)」みたいな会話があったのかなーとか思った。

のと

のと

で、なぜかわからないけれど、梅佳代の写真の中の彼らはずっとこのままなんだろうなって思った。実際は違うけど。意図されていない、作られた永遠。だからか、じいちゃんさまのコーナーで、年代を追って写真を見ていったときに、結婚式があったり赤ちゃんが産まれてたり、おばあさんが亡くなってたりするのを見て「ええっ、歳とったり変わったりするの?」って言う感覚がある。当たり前のことなのに。意図されていない、作られた永遠、ではない現実がときどき見え隠れする。

 

で、zine展2。本当はこれが一番の目的だったのだけれど、わりと直前まで行けるかどうかわからなくて、だからあんまり真剣に予定立ててなかったんだけど、行けそうだったので行ってきた。手動の扉を開閉してエレベーターに乗って(サッポロの大人エレベーターのCMのあれ、だそうだ)いちばん奥の思ったよりも小さなところ。

レジのすぐ横に他のものすごいちゃんとした本に囲まれて、それはそれは小さくなって置かれていた。こんなところにいたのか、と思ったけれど、前回は本当に何もしなかったぶん、今回はちゃんと紹介カードもつけたので誰かには手に取ってもらえているようだ。

会場を見渡すと文学フリマでもみかけないようなものがあった(ような気がする)。ギャラリーの魔法にでもかかった目で見ているせいか、あんまりがっつりな同人誌はないように思った。ラノベな人とか評論とかそういうのはあんまりないからかな。

zineの定義はよくわからないけれど、複数の人が作った雑多な読み物という意味でとればたぶん大半は定義から外れている。でも、一つの箱の中に入れちゃったんだから、全部まとめてzineというふうにとれば、それはなんでもありなんだろう。

とはいえ、気になって手に取ったのは自家製本のイラスト付きの詩集とか、写真集とかそんなのが中心だった。あと、形態がちょっとひねったものとか。

いくつか入手した。文フリみたいに買ってくれオーラがないので、本当に本当に少しだけにした。文フリで会える人のは文フリで買うことにした(ごめんなさい)。

で、買ったものの感想を貼りつけておく。

他にももう一つ二つ手に入れたのだが、それはまた後で。文学フリマって文学縛りだからこういう、縛りの少なそうなイベントが、ギャラリー外でもあればいいのになって思った。

自分の作ったものは自分がそうであるように、どこに行ってもどこにいても中途半端な存在だなと思った。もうちょっと人目を気にせずにやってもいいのかもしれない。もうやらないでやめちゃってもいいのかもしれない、とも思った。書きたいことがあって書いて、できたから文フリなりに出る、という姿勢でいるつもりだったから、これが文フリに出るためにないネタをひねり出すということになってしまったら本末転倒になってしまうのではないか。手段と目的は、手段と目的であるべきなのだ。だから、文フリももういいかなって思っちゃったらその時はとっとと一般参加にするべきだし、寄稿してそれでいいと思うなら自分でブースを申し込む必要は、ない。

春に寄稿したあれで小説を書きたい欲が少しおさまってしまったので(書けたという満足感を得られたからだと思う)、しばらくはいいかなと思っているのが正直なところだったりする。なので、今年一杯くらいは詩(と写真)をがんばろうと思う。来年のことはわからない。うん。わからない。