はじめに
こんばんは。添嶋です。第13回短編小説の集いですね。添嶋の参加は8回目。カウントを直したそうですね。テーマは魚。
ぎょぎょぎょーとかそういうのが思いつかなかったのですが、これ、どういう話なんだろう。魚の出てくる話だよ。いちおうね。
では続きを読むから。
「リ・インカーネイション」
ガラス越しに見える姿はいつもきれいだと感心している。彼女は毎日遅くまで働いて、この家に帰ってきて、ベッドに溶けてしまうのではないかというほど疲れた身体を横たえ、朝早くにバタバタと支度をして出かける。休日は少しだけ寝坊をすると、家の中のことを片づけ、余裕があれば出かけるし、そのまま家で過ごして終わることもある。
彼は彼女のことを誰よりも愛している。彼女が帰ってくると飛び跳ねて出迎えるし、彼女が近づいてくるとせわしなく動き回って自分のことをアピールする。彼女が彼をどう思っているのかはわからないが、少なくとも長く生きていてほしいとは思っているようだった。
彼はこの家に来る前は彼女と言葉を交わすこともあった。彼女のことを思い、嫌がることはいっさいしなかったし、体に触れるときも時には彼女が物足りないと感じるくらいに優しかった。結婚しよう、というと、まだ早いよ、とかわされることもよくあったが、彼は辛抱強く待ったのだ。
悲劇は起きる。
彼は仕事中に倒れ、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。正確にいえば、人として目を覚ますことはなかった。彼女はひどく悲しみ、こんなことならばあの時結婚しようといわれたときにいいよと言えばよかったのだと何日も泣いた。
彼女は人から金魚を譲り受けた。白くて、お腹と背中のあたりが赤い、細くてちいさな金魚だ。くりくりとした目がどことなくいなくなってしまった彼を思い出させる。もしかしてもどってきたのだろうか、と思うこともある。もちろんそんなはずはない。彼女はそう思っていた。
彼は目を覚ます。まわりは水ばかりで、だが、不思議と息苦しくはない。水とガラス越しに見える彼女は最後に言葉を交わした時よりも痩せているような気がする。大丈夫なんだろうか。ちゃんと飯は食っているのか。なにかを伝えようとするが、言葉が出ない。出るのは口からときおり漏れる泡だけだ。なんということか、彼は金魚に生まれ変わっていた。
彼女の家にはたしか猫がいなかったか。彼は猫の姿を探す。猫は猫のくせに金魚には見向きもせずに窓際で寝ていることが多い。
おいお前、俺のいうことがわかるならちょっとこっちへこいよ。金魚は跳ねて知らせようとする。
んだよ。猫は怪訝そうな顔をして彼のほうを見る。なんだあんた、魚になったのか。ざまあねえな。
彼女がちゃんと飯食ってるか知ってるか。彼は猫に問う。知らないな。だいたい家にいるときはほとんど寝てるじゃないか。
ならばなにか食うようにお前からなんとかしてくれ。彼は無理を承知で言う。
彼女が帰ってくる。彼は飛び跳ねて彼女を迎える。猫は彼女に近づくとナーオ、と鳴く。そのままキッチンのほうへ向かう。
「なんか食べる? あたしも一緒に食べようかなあ」
のんびりとした口調は昔から変わらない。彼は猫に感謝すると、ガラスの底でしずかにする。
彼女と金魚になってしまった彼、猫の同居は続く。
季節が一周する頃、見知らぬ男が出入りするようになった。彼はそれもしかたないと思う。彼女が幸せになるならば、ちゃんと人間のパートナーが必要であることは、始めからわかっていることだった。
彼女は、彼といるときよりも幸せそうな顔をすることが多くなった。なんだ、不満でもあるのか。猫は笑う。あんた意気地なしだったからな。彼女、物足りなかったんじゃないか。
彼は頭ではわかっているけれども、現実が目の前にあって、それを受け止めようとすると、今までのようにはしゃぐこともできなくなった。これでいいのだ。そう、何度も繰り返した。
彼がこの家に来て何十回目の彼女の休みの日。呼び鈴がなって、彼女は扉を開けようとした。彼女の恋人がきたのだろう。誰もがそう思った。
彼女は悲鳴を上げる。誰も知らない、見たことのない男が彼女を襲おうとしていた。
彼女は家の中に逃げる。もちろん、それ以上の逃げ場はない。彼は彼女を救うために必死で考える。
おい猫、このガラスを落とせ。
できるわけないだろ、こっちだってもうだいぶいい歳なんだ。猫も彼女のみを案じながらいう。噛みつくくらいなら。
こっちにおびき寄せろ、棚に身体をぶつけさせるんだ。彼は叫ぶようにいう。上手く頭にこのガラスを落とすことができればもしかしたら。
猫は蹴飛ばされるのを覚悟しながら、男の足許に近づくと、見えている皮膚に噛みつき、ひっかく。痛みと反射で男が足を振り上げると猫は窓のほうに飛ばされる。何度も、何度も噛みつく。何度も何度も蹴飛ばされる。男はだんだん彼のいる棚のほうに近づいてくる。
彼は水面近くで何度も飛び跳ね、彼女を心配する。おい猫、玄関を開けろ、悲鳴を外に聞こえるようにしろ。
無茶いうな、と猫はいう。あんたこっちをなんだと思ってるんだ。猫は男に派手に噛みつくと、男はそれに合わせるように派手に痛がった。猫は蹴飛ばされる前に体を放し、玄関の自分の出入り口を空かせると少しでも声が外に漏れるようにした。
彼女は彼のほうを見た。彼は何度も跳ねてこれを使えとアピールした。
彼女は足を噛まれてうずくまっている男の頭めがけてガラスの水槽を振り降ろす。
!!! 悲鳴も一緒だ。
物音に気づいた隣人が扉を開けて入ってきた。床には頭を殴られて動けずにいる男。 家中ひどい有様だが、彼女はどうやら助かったようだった。
よかった。彼は床の上で力なく跳ねる。君が無事ならそれでいいんだ。意識が遠くなる。またなにもしてやれなかった。彼は何度目かの後悔をした。
数日後、彼女の家には新しい水槽があった。中には彼が白く、お腹と背中のあたりが赤い体を揺らしながら泳いでいた。猫は棚の下で丸くなって眠っている。あんた命拾いしたな。猫はあくびをかみ殺す。お前がちょっかい出さないからな。彼はくるりと回り、水面を跳ねる。彼女は棚の上、水槽の横の彼の写真を見て、金魚に目をやる。誰があの時たすけてくれたか、彼女はきっとわかっていたのだと思う。