まとまりがつかないので、久しぶりに箇条書で書く。前後の関連性はまったくない。
- 八月の頭から予備校に通うのに家を離れていた末の子どもが帰ってきた。彼の進もうとしている道を、今はただ見守るだけの簡単なお仕事。
前は頻繁に彼の描いた絵をアップロードしていたが、もう自分でやる環境もあるし、その選択も任せてしまったほうがよいだろうと思って今はしていない。
- 本当ならあちこちの展示なんかを見に行って、どうだったとかあれも見たいとかここに書くのだろうけれど、それもままならないうちに八月が終わる。
オリンピックもパラリンピックも、なんならフジロックも開催の意義がわからないまま始まって、なんとなく無視しているうちに終わる。
どれもそれなりに見たりしていたので、どうしてこうなってしまったのか、それは必然なのか、ひとり問い続けたところで答えは死ぬまででないだろう。
正直に家でおとなしくしている人たちが皆馬鹿にされたような気持ちになってしまうのがよくないのかもしれない。
- なんとなく始めたことを、やめた。飽きたというよりは合わなかったのだと思う。理解も妥協点も見出せないまま手から放すことにした。
それはたぶんずっと続いている、今も辛うじて続けていることに対しても同じなのかもしれない。やめどきはむずかしい。
- 今使っているMacBook Proのバッテリーがだいぶヤバいらしく(要修理と出た)、確かにボトムカバーがへしゃげている感じがするのだが、前みたいにトラックパッドやキーボードに影響が出ないうちに交換したほうがいいと思っている。思っているけれど、時間がない。お金もだけど。でもまた10万単位で支払いが出てくるのはもっと困るので、早急に何とかしなくては。
- 先日、無事に一つ歳をとった。実母から「人生折り返しですね」と言われ「まだ50年もあんのかよ!」と思わなくもなかったが、別にどこで折り返してもいいんじゃないか。もうあと2-30年くらいのもんだろう。いつ途切れてもあんまり後悔はないんじゃないか。
辛うじて続けていることは、今はものすごく停滞しているけれど(それはなにかを言ってきた誰かのせいかもしれないが、ほとんどは自分のせいだ)、それでも新しいなにかを引っぱってくる。不思議なものだと思う。
- なにかを見つけるたびに、それに対してなにもできないことを悲観するのはやめた。全責任を持てるわけでもなし、こちらが一方的に知っているだけで、相互に意識した関係ではないのだった。いちいち全てのことにたいして「あの時にこうしておけば」と思って生きていくのは無理がありすぎるのだ。
手だてが明確にあって自分に余力があるときだけ、でいいんじゃないか。