国立西洋美術館で開催されている 「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか ――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」を見てきた。
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西洋美術館にはいわゆる「現代美術」は収蔵していない。ただ、この美術館の成立が「収蔵品に触発され未来の芸術を作る刺激の場になって欲しい」という願いを託されていた、ということを考えると一度精査する必要はあったのかもしれない。
で、そうなんだけど、それをこの場所でする必要はあるの? という気がするんだよなあ。
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なので、展示にしてはキャプションもステートメントも多い……というかどちらかというとそれが本当の展示作品なのではという気がしてくる。結局ステートメントと作家から依頼されて書いた文章しかなかった展示もあった*1。
なので、図録*2を読み込まないと全体の意図がわからない。
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写真は基本的にはOKなのだけど、今回のはどれも撮ろうという気にはならなかった。こんな作品がありました、みんな見に行こう、じゃあないんだよなきっと、と思ったからだった。
単体で見るとどれも良いと思った。見た人のどれが良かった、という感想がわりと偏っていて、そう思うのも宜なるかなという気がしないでもない。どうしても「ここでこれを展示する必要があるのか」問題が頭にあるからだと思う。
内覧会の時に抗議パフォーマンスがあったけれども、あれについても展示には言及があって、あのパフォーマンスも込みのインスタレーションだったのか、と思ってしまったりもした*3。
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アートウォッチャーの人が「自明な解答の用意された茶番劇に対する前衛的抵抗の応酬」と言っていたけれど、まあそういうことなんだろうな。パープルームの展示があるってそういうことなんだと思うし。
ドヤの人の聞き書き(描き)なんかは作品なんだけど、どちらかというと提案した美術館の人の意図が透けて見えたりして、展示そのものはすごくよかったけど「美術展とは……?」みたいは気持ちでいたのはたしかだった。
なんとなく、本当になんとなくだが、論争になってしまった愛知トリエンナーレの延長というか、傍流というか、不謹慎にはならない(不謹慎と捉えられて炎上しない)ギリギリをつこうとしている、みたいな印象はあった。なんでかはわからんけど。ときどき妙に不穏な空気が感じられたからかもしれん。
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ま、でも自分は美術の素養はないし、見たまま思ったまま書いてるだけなので、意図と違う捉え方をしているかもしれない。美術展と思うからおかしな印象を受けるのであって、あれは国立西洋美術館の成り立ち(とその先)を追っていったもの、と捉えたらもしかしたら違うふうに見られたのかもしれないな。