東京藝大の卒展に行ってきた。一度見てみたくて、ただずっと新型コロナ禍でその機会もなく。今回やっと機会を得たので行ってきたのだった*1
◇
午前中は藝大美術館と大学構内。ちゃんと入ったことはなくて、なので階段上がる度に「ブルーピリオドで見たのはこれか」などと若干の感動もしつつ……であった。
最初に書いておくがこれは自分の感想なので、頓珍漢なことを書いている可能性は高いです。このおじさんはこんなことを考えたのだなと思っていただけるとありがたい。
◇
初っ端に見たのは陶器の打楽器。U-zhaanとか叩いてそう……と思ったけど、若干ルーツの場所が違ったかもしれない。ぽこぽこ叩く音がhappyな気分を作ってくれる。
◇
彫刻のこれは大理石を削り出したものだが、ただただずっと眺めていたい、言葉で感想を伝えるのがこれほど難しいものはないというくらいの衝撃。祈りのような何か、作るではなく生むという風に見受けられるなにか。
製作者曰く、作っても作っても達成感はないそうだが、ここまで作るには緊張と攻めの姿勢がないとできないだろうというのはわかる。区切りをつけたときの気持ちの解け具合は如何様なものだかったか。
これがいちばん好きだった。
◇
真っ暗な中に降りそぼる雨のような、さああ、という音。プシュケーというタイトルだが、外から見た胎児のような*2。
◇
すりガラスになっているものはドレス、それを眺めたりしている(過去の)自分。展示の中心に置かれたドレスを上から踏みつけているもの、それが一番今の自分だそうだ。歳を重ねるということは憧れを憧れのままにして、それを踏み越えていかないといけない……という風に受け取る。現実とか立場とかそういうのを。
◇
「自分という形、タリバンに壊された石像、実態はなくなってもスピリット(魂)はここに残っている」と製作者は言う。中央の金色の人は取り外すことができ、そこにはその形の窪みが残る。忘れないで、誰か覚えていて、という願いのようなもの。
◇
午後は東京都美術館。大学のほうは主に院生、こちらは主に学部生。
院生の表現は6年(もしかしたらもっと?)分の重みとか悟りみたいなのがあって、学部生のはもうちょっと身軽。わかりやすい飛び道具みたいな作品はないけど、こちらも一生懸命考えたりしないといけない。ただ、学部生のほうが提示するパーツは多い。
油画の人が絵画以外の表現をしていて、GAP(Global Art Practice)の人とか美術学の人たちが油画を描いていて、先端芸術とインスタレーションの違いはなんだろうとかいろいろいろいろ考えつつ。
もうしょうがないんだけど、新型コロナ禍の影響はものすごくて、みんな内省的にならざるを得ない。ステートメント見ててもそれにふれている人がほんとに多い。止まってしまった活動、時間に対して誰が責任を取るんだろう。
◇
以下はいろいろ気になったもの(で覚えているもの)。
画。ちょっと思考実験的。
思考実験的と言えば、これは確か「安楽死ができる世の中になった」という体でインタビュー映像が流れていた。「受け入れますね」「ちょっと考えちゃうかな」
幼い頃の自分の映像にある場所で同じ状況に自分を置いて、追体験というか自分が何であるかを考えるというか。
樹木をスライスして衝立というか屏風みたいに再構築。昔、「人体の不思議展」て標本展があったけど*3、樹木で同じようなことをしてるみたいだなと思った。なんというか、怖さを感じる。
製菓材料で作ったオブジェ。手の熱で溶けて流れて、持つ人と同化する……のかもしれない。
◇
最後は文房堂ギャラリーで真田将太朗さんの個展。バッチバチの抽象画。
Twitterでこれでバズった人だけど、ちゃんと目の前にいるのが誰か確認してから語るべきだったね、知らないおじさん。
ギャラリーで知らないおじさんに「君はまだ若いから、こういう絵を見たときに作者が何考えてるかわからないだろう?勉強しなさい」って言われたけど、それ俺の絵
— 真田将太朗 (@tarobee1212) 2022年7月30日
そこに書いてあるものから何を読み取るかは見ている側なんだけど、たぶん全部を試されていると思うよ。教養だけじゃなくてその人となりとかも。
◇
学生っぽさが出ていてもそうでなくてもいいんだけど、バカみたいな出オチっぽいインパクトを狙う必要はないんだなと思った。ラジカルなやり方からから生まれる新しいもの、慎重に掘り下げていく思索、どれもみんな正しくて、思っているものになれたらいいのにと願うばかりだった。