空想少年通信

素人物書きのつれづれブログ。

useful/useless

所用の家族と新宿で別れたあと、六本木。森美術館。アナザーエナジー展。

国内外の女性芸術家16人の展示。Stars展は6人だったが、あの時は展示を6つ一度に見たときみたいなものすごい疲労感があったが、今回は16人もいたのにうっすら統一感があったからか、もう終わり?という感覚。

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フェミニズムってなんだろね。最近の声のでかい人たちの主張はフェミニズムの皮をかぶった「私だけを丁重に扱え」に見えてしまうんだよな。本来はそうでないはず。なので、「自分を大事にしてくれなさそうな」物事は女性のふりであっても攻撃する/しているように見える。まあいいや。今回はそんなことを考えたいんじゃない。

ただ、少なくともこういうものを見ていくと「男性性って要る?」という発想は拭えなくなる。主語をでかくする必要はないのでもっと言うなら「自分は要らないんじゃない?」なのだった。ま、基本的には自分不要論者なので、どこかでどうにかしたいと思っていますが。

 

南米の地図をモチーフにした作品があって、自分が見た南米/他人の認知としての南米の対比みたいな感じだったのだけど、「どうだ問題として提示してやってるぞ」感のない「それはそれとしてあなたはどう思うの?」という提示のほうが「刺さる」感じがするけどどうだろう。

作家はみなover70の人ばかりだったが、歳は関係ないな。

 

深川のパラアートを眺めつつ東京都現代美術館まで。パラアート(って最近は言うのね)、意図とかなくて衝動だけで描く人と、ちゃんと意図を持って描く人と当然いて、それの差はなんだろね、と思って見ていた。無条件で「上手いねえ」でいいんだろか。別になに見ても好きか嫌いかしかわかんないもんな。

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東京都現代美術館はTOKYO ART BOOK FAIR。

去年はオンライン開催だったのかな。自分は初めて見ました。2時間(135分)完全入替だったのだけど、規模も大きくなく、そんなに時間はかからなかった。

頭の中では文フリみたいなzineとか、デザフェスみたいな展示といったものかしらと思っていたがそんなことはなく、がっつり印刷・製本されたものが2/3くらいで、1/3が自分の思ってたものという感じ。版元や業者参加も多くて、安心感はあるけど自分の好きなものにぶつかるのは少ないかもなあと思った。これは、自分がイベントの趣旨をわかっていなかったからで、次からはもっと楽しくいられると思う。

あと、全体的に単価は高いので(制作費考えたらしかたない)、予算をたくさん確保しないとダメだな。

買ったのは二つ。一つは版元のなので書店でも買えるんだろうけど、なんかの縁なので。もう一つは折本形式のzineというか写真集。

 

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この紙なんて紙だろう。これに印刷して自分もなんか作りたいなって思った。すぐに頭から振り落とされるけれども。こういうのをするっと作れるセンス(となにかとdisられても平気でいられる胆力)がほしい。

ひとつ200円で三つで500円。全部盛りで6種類あったら……そりゃ全部買うでしょ。好きなものが一つ増えた。

 

そのあと1年ぶりの山椒庵。リサイクル着物のお店である。一人で迷わずに行けたので自分を褒めたい。ここのお二人は同じ方向を向いているので、いい進みかたをするのだと思う。ジョブズとウォズニアックみたいな?(大袈裟)

はじめましての他のお客さんと一緒になり、部活感が増す。ずっと笑っていた。

ひとりのかたに対して、あの人と会わせたら面白いだろうと思っていたら、来た(いるってツイートしたけど)。やっぱり盛り上がる。ちなみに移動もほぼ同じだったが、駅で別れるまでずっと話していた。

結局3時間くらいいてしまった(客としてはダメな部類だと思う……帯はひとつ購入した。珍しく華やかな感じ)。ここオリジナルの帯があるのだが、わがままを言って両面の柄指定をした。次は1年開かずに来なければいけない。(在庫管理大変になるからな)。コーヒーも美味しかった。

 

所用を済ませた家族と初台で落ち合い、新宿まで戻ってきたら、京王線が傷害事件のため運行停止、振替輸送を行なっている旨の案内があった。後ろを歩く人が「リアルハロウィンやってんじゃねえよ、ホラー映画じゃねえんだよクソが」みたいなキレかたをしていて、そりゃそうだなと思った。そういえばハロウィンだった。山手線で渋谷駅通過時に何やらうるさかった。日常がそこには戻ってきていた。ただ、それをよしとしない人、無関係に通り過ぎる人、浮かれている人の間は一昨年よりは空いていたような気がする。

静岡着物男子の会

……っていうの、ないのかねえ、などと呑気なことを言っていたら、作ってくれた。早っ。

 

 

で、とりあえず一度お会いしまして(フットワーク軽い)。思いの外近所ということも判明し。行灯袴と馬乗袴も貸し出し。

 

 

というわけで、11/13に静岡駅集合でやることになりました。男子の会、ってありますけど旦那や彼氏けしかけて一緒に着て来てくれてもいいし、集合写真撮ったらあとはわりとフリーダムなのでそのまま個別行動でもいいですし。もちろん、静岡県外からの参加も歓迎です。いつも一人(か家人と二人)で着て歩いてるだけなので、ほかにどんな人がいらっしゃるのか、単純に興味があるのでした。

 

詳細はこの辺りを読んでいただければ。

とはいえ、気楽に集まりましょう。楽しい会になるといいな。

あ、マスクとかの諸々の対策はお忘れなく。

 

 

出歩く

いろいろあって東京に滞在した。

行きたいところはいくつかあったが、雨の予報もあったのと、自分一人で出かけたわけではないし、あまり無茶な行き来はしたくなかったので、その日行かないと見られないものだけ見に行った。

 

吉祥寺にある、百年という新刊も古書も扱う書店。セレクトショップらしい雑多さと、本に囲まれているという幸せ。いわゆる書店だとこういうのは味わえないな。中古レコード屋みたいなdigる作業が楽しいところ。

で、「いぬのせなか座」という言語と視覚芸術*1のユニットがあるのだが、それの展示があって、これだけはどうしても行きたかったので、行ってきた。

今まで出た本(本……?)と、「光と私語」の表紙デザインが決まるまでの展示。

何度もリテイクを重ね(12〜15テイクくらいあった)、微調整をし、紙とプラのケースでレイヤーを構築し、完成したものを入手できる。が、扱っているところも少ないし(なんなら文フリとかのイベントのほうが確実だったりする)、そこまで丁寧に作ってあるという事実に感動すら覚える。

また本作りたいな、と一瞬思う。美的センスも素養も持ち合わせていない人間にはこんなことできないなと思いなおす。(いろいろ思ったけど割愛。いつもの思考だし)

持ってないもので、買う当てがここしかないものを購入。コンプリート欲はなくはないが、自分が思う、自分の好きなものだけにしたい。

一日、という古書店もある。そこは(今は)猫の絵が飾られていた。どちらかというと芸術関係の本が多め。

どちらも知っている人からしたら「知っているからわざわざ書かなくてもいいしうざったい」と思うのかもしれないが、知らない人間には新しい発見だったのだ。

そういえば、「百年と一日」という柴崎友香の本がありましたね。

 

 

 

同行者のリクエストで自由学園明日館。

中は修復したとはいえ、校舎として使っていた当時を思わせる状態で、たしかに撮影スポットではある。今は別の場所に移転していて、それはそれで楽しい学校生活を送れそうではある*2。クラス会会場と書かれた紙が部屋の入り口に貼ってあって、こういうのが似合うのは貴重だと思ってしまった。

自由学園創始者はクリスチャンだし*3、自労自治の精神で自分たちで諸々をこなしているそうだし、共学とはいえいちおう別々になっているところとか合う合わないはあるんだろうが、このままでいてもいいのではないか、という気もする……。

 
 
 
 
 
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そういえば、敷地に入るなり某出版社のグラビア撮影をしていた。結婚式や演奏会のほかに撮影用のセットとしての貸し出しもしているのだな。被写体の人は美少女ってこういう人のことを言うのだろうという感じ。性格はきつくはなさそうだが、意思はちゃんと持っていそうで、あざとさはない。そのうちどこかの雑誌に載るのだろう。

 

二度目の銀座橘苑さん。帯を購入。鳥獣戯画柄と縦糸がカラフルで遠目には地味というのとで迷ったが、これに合う色の長着持ってないなということで実はカラフルな帯に。ポリの小紋をいくつか見せていただいた。次は小紋か? 着てくとこあるかな。

男の着物たけもとさんでは、アルマーニとかDOLCE&GABBANAの羽織、エトロの長着やらデニム(であんまり見たことのない色)のを羽織らせていただいた。それにしてもアルマーニの羽織万能だな*4

 

次はもうちょっと違うところも行きたい。

*1:合っているのかこれで……なんか違う気がする……あとで適切なのに直す

*2:今の校舎も明日館の作りに準じているようではあった

*3:婦人之友社の創設者でもある

*4:ブランド服と同じような生地で作ってある。マリメッコなら生地で売ってたけど、他も手に入るのか

圧倒的なスタイル(あるいは、パーフェクトスターパーフェクトスタイル)

どれくらいぶりかわからないけれど、久しぶりにイベントをやっている。いろいろあって、自分でできる範囲でやっているので、規模は小さい。小さいけど、歩幅は大きくしていきたい。

 

10/5〜10/10で、静岡市にある書店の場所を借りて、委託イベント。本当は以前のように会場を借りて、みんなで集まって、とやりたいところだが、会場がそこまで本格稼働しているわけでもないので、今の形になった*1

 

受付から委託品の受け取り、お金や会場とのやり取り、ほぼ全部一人でやっているので、時々、これ、こんなことしててええんか、という気分になる。ひとりではりきってるだけにならないか。星飛雄馬の主催したクリスマス会は誰も来んかったんやで。大丈夫か。

そう思っていても仕方ないので、宣伝に使えそうなところは使ってしまっている。好きじゃないとの必要かどうかは違う。

 

買ってくれた人に、何か袋に入れて渡したい。そういうのが好きだからだ。もとセクシー環境大臣言うところのあれで袋有料になってるところは多いが、ぶらっと来て買ってもらって素手で持っていけと言うのはなんだか違う気がする。なので、紙袋を用意した。図案は古くからの知人にお願いした。消しゴムハンコにして作ってくれた。

その人とは、知り合ってから20年くらいブランクがあって、ここ何年かまた親しくしてもらっている、そういう間柄だ*2。どこかでできた繋がりが、細く細く長く繋がったままであったことを今なら無条件で感謝できると思う。というか感謝している。

 

会場となる本屋さんの雰囲気も壊したらいけないと思う。僕はわりと土足で上がり込みがちなので、なんとか意識して距離を保ちつつ、そこのイメージを壊さないようにしないといけないと思っている。だから什器も一から用意した。

イベントの設営はひさしぶりだ。たぶんほぼ2年ぶりくらい。文フリ京都以来だ。設営は楽しい。これから来るいろいろなことにワクワクできる。設営の時がいちばん不安がない。

 

3時間くらいかかって、設営が終わる。昔していた仕事と近いような遠いような、あの時もセンスがなくて上司に毎日酷く叱られていたけど、今でもセンスがいいとは思えない。その場を邪魔しない、ということだけは覚えた。

 


 

まあだいたいこんな感じだ。

 

 

歳のことを言うのは野暮だし、それをダシに批判してくる奴はいるが、50あたりになって、10代では考えられなかったことが身に起きている。単純に楽しい。webメディアで記事を書くこともあったけど*3、それも含めて、普通に仕事して無趣味のままいたらできないことをさせてもらっている。したいと思ってもできないことだ。尻込みしていないでやってみようというのは、自分の子供が自分のやりたいことを自分で考えてやっているのを見て、人にやってみたら、というだけではダメだなと思うからだろう。知識も技術もない、ただの思いつきと勇気だけで突っ走ることもできるのだ。

 

 

物書きを始めた時とは違う意味で今はいろいろが楽しい。結果がついてくるかはわからないけど。

*1:62人しか入れられないってイベントとして成り立たないと思うんだけど。寄席とか演劇は元々の定員いっぱいまで入れられるんだけどなあ

*2:ニフティサーブの頃の知り合い、って言ってわかる人はたぶんそんなには多くないと思う

*3:うまく行ったかどうかはわからないが、自分には向いていないな、ということはわかった

コップを新しくした

別に大した話ではない。前から使ってみたいと思っていたコップがあって、やっと決心して買った、と言うだけの話である。

 
 
 
 
 
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最近、クラフト系イベントによく行くようになって、当然そこには何人も陶芸をやっている人がいて、沢山の器ものが売られている。いくつかはいいなと思うものがもちろんあるのだけど、実際なかなか入手できないじゃん? 今使ってるものあるし、そうそう割れる、壊れることもないし、一つ新しくしたら一つ使わないでしまいこまれるものが出てくるわけだし。

一人暮らしの頃は、最終的には本当に使うものだけ残して、あとは全部段ボール箱にしまって押し入れの奥に突っ込まれたけど、今はそういうこともしないし。

増やすのも嫌だなあと思って、ここしばらくは買わずにいたんですが。結局ひとつ買うことにした。いくつもイベントで迷っては見送って、を繰り返して、ようやっと決心した。というか、まあ使わないやつはしまっとけばいいやって、大袈裟に言えば腹括った、みたいな話。

 

所有し始めるには多少の思い入れがないとダメだと思っているけど(じゃないと大事にしないわな)、人にはそれを強要してはいけないし、人のものには思い入れは必要ないし、けど邪険にする必要もないというか、どうこうする権利もないしね*1

なんかまた最近、同居家族の趣味の所有物を存命中に勝手に処分する、っていうのをタイトルだけ見て勝手にぞわぞわしている。なんかあっても責任取れないだろうになーと思ったり、人のもの邪険に扱うくらいなのに、その人のこと邪険な扱わない保証はないわなと思ったりした*2*3

 

もちろん、自分のものならいろいろ捨てたいものがある*4。さてどうしたもんかね。

とりあえず、来年の春くらいまでにはある程度ものを減らす方向で動きたい。本も減らしたい。

*1:何もしない=大事にしていると受け取られれば御の字くらいの感じ、どうしてほしいかの希望は聞くけども。

*2:逆に亡くなった人のものを、形見分けと称していいとも悪いとも言わないうちからずんずんもらっていこうとする、もらってっちゃう他所のおばさんたちの気持ちもわからない。それ普通に使うの?所有欲満たされたらゴミにならないの?って思ってしまう。ほんと、わからん

*3:何度か書いてる気もするけど、自分のものは死んだら全部有無を言わせずに捨てろとは言ってある。思い入れなんか要らんし、無理に興味持って貰う必要もないし、誰かに引き取って貰うなんて手間がかかるだけで時間も場所も無駄なだけだし

*4:若い頃に買ってもう全然動かないステレオ機器とか、着ないくせに処分するには手が止まる、わりと値段がした服とか

儚いもの

今回も箇条書きで。前後の繋がりはありません。

 

  • とある繋がりのお通夜に行く。いろいろすっ飛ばして、お骨になってからのお通夜。惜しまれる人の惜しまれる別れ。
    死はすぐそこまで来てるのだという、実感のない事実。

 

  • 自分たちだけなんとかなれば、あとはどうとでもなるでしょう、という認識が通用しないということをもう少し自覚的になるべきであったのではないか。
    件の人たちはもう自分たちには関係ないことだとしらばっくれればいいのかもしれないけれど。

 

  • 万が一のために、ネットスーパーについて調べる。まあ、なんとかなりそう。

 

  • 週末、イベントのキャッチ画像を100億年ぶりくらいに作る*1。センスなんか皆無なので、なにかしらのお叱りをうけるとは思うのだけれど、そのときはそのときか。

 

  • 着物の古着のセールを見ていたりするけれど、本当に男物っていつ見ても同じ柄と色しかないのな。なので、手に入れるというのは当分なさそうな気がする*2
    この夏のむちゃくちゃな天候で、結局あんまり着た気がしないまま夏が終わる。そうこうしてたら単衣の季節も終わっちゃうなこれ。

 

  • アンチウイルスソフトを永らく使用していたものから、プロバイダ提供のものに変更。月額料金に含まれているので、使わないともったいないのだよ。
    あと、出かけなかったので、まだパソコンのバッテリー交換ができていない。
    ディスプレイのケーブルとバッテリーの膨張が干渉していて、それでときどき絵が荒れる……ような気がする。壊れるのはまだ早いぞ。

 

  • 自分がやろうとしていることが果たして正しいのかどうか、まだわからないでいる。だれも来ないパーティーの準備をしている星飛雄馬みたいなことになっていないか。もっと図図しくなれたらいいのか、あるいは警戒してなにもしなかったほうがいいのか、いつになっても答えは出ないんだろう。

 

以上です。

*1:いつもは完全に担当にお任せにしている。だってそのほうがいいのできるんだもん

*2:でなかったら仕立てるしかないわけだし

夏が終わる(来た気配もないうちに)

まとまりがつかないので、久しぶりに箇条書で書く。前後の関連性はまったくない。

 

  • 八月の頭から予備校に通うのに家を離れていた末の子どもが帰ってきた。彼の進もうとしている道を、今はただ見守るだけの簡単なお仕事。
    前は頻繁に彼の描いた絵をアップロードしていたが、もう自分でやる環境もあるし、その選択も任せてしまったほうがよいだろうと思って今はしていない。

 

  • 本当ならあちこちの展示なんかを見に行って、どうだったとかあれも見たいとかここに書くのだろうけれど、それもままならないうちに八月が終わる。
    オリンピックもパラリンピックも、なんならフジロックも開催の意義がわからないまま始まって、なんとなく無視しているうちに終わる。
    どれもそれなりに見たりしていたので、どうしてこうなってしまったのか、それは必然なのか、ひとり問い続けたところで答えは死ぬまででないだろう。
    正直に家でおとなしくしている人たちが皆馬鹿にされたような気持ちになってしまうのがよくないのかもしれない。

 

  • なんとなく始めたことを、やめた。飽きたというよりは合わなかったのだと思う。理解も妥協点も見出せないまま手から放すことにした。
    それはたぶんずっと続いている、今も辛うじて続けていることに対しても同じなのかもしれない。やめどきはむずかしい。

 

  • 今使っているMacBook Proのバッテリーがだいぶヤバいらしく(要修理と出た)、確かにボトムカバーがへしゃげている感じがするのだが、前みたいにトラックパッドやキーボードに影響が出ないうちに交換したほうがいいと思っている。思っているけれど、時間がない。お金もだけど。でもまた10万単位で支払いが出てくるのはもっと困るので、早急に何とかしなくては。

 

  • 先日、無事に一つ歳をとった。実母から「人生折り返しですね」と言われ「まだ50年もあんのかよ!」と思わなくもなかったが、別にどこで折り返してもいいんじゃないか。もうあと2-30年くらいのもんだろう。いつ途切れてもあんまり後悔はないんじゃないか。
    辛うじて続けていることは、今はものすごく停滞しているけれど(それはなにかを言ってきた誰かのせいかもしれないが、ほとんどは自分のせいだ)、それでも新しいなにかを引っぱってくる。不思議なものだと思う。

  • なにかを見つけるたびに、それに対してなにもできないことを悲観するのはやめた。全責任を持てるわけでもなし、こちらが一方的に知っているだけで、相互に意識した関係ではないのだった。いちいち全てのことにたいして「あの時にこうしておけば」と思って生きていくのは無理がありすぎるのだ。
    手だてが明確にあって自分に余力があるときだけ、でいいんじゃないか。