空想少年通信

素人物書きのつれづれブログ。

必要に迫られる

いろいろあって、べつに求められてもいないのだけど、村上春樹を読み出した。去年の話。ちょうどBRUTUSかなんかで特集があったからそれと、短編集を買って読んだのだった。そういえばすごい昔にアンダーグラウンドを斜め読みしたかもしれない。

村上龍とどっちが好き、と聞かれて、「最後まで読み通せるのは村上龍」と答えたことがある。たぶんなんか理屈っぽいほうが好きなのかもしれない。エッセイなら村上春樹も好きなんだけど。

いろいろあって、べつに求められてもいないのだけど、多和田葉子も読み出した。これは今年の話。勉強不足で知らなかったから、Amazonで検索してこれ、と思うものを選んで読んでいる。

どんなことが起きているか、を、明確に出さずに(後から小出しにすることはあっても)進んでいく話は嫌いではない。言葉はわかりやすいのにわかりにくい話というのが好きなのかもしれない。

流れで小川洋子もちょっとだけ読んだ。気にはなってるけど手に取ってない作家のひとりだ。昔ならこういうのをよく読んだかもしれない。せめて「博士の愛した数式」くらいは読んでみようか。

柳美里は大昔読んだけど、今は。読んでてなんとなく辛くなるのが自分には合わないのかもしれない。とはいえ、なんか読んでみるかなあという気分。

人に「本好きなんだね」と言われることは多い。小さい頃から本ばっか読んでたと言われる。でも読んでたのは図鑑で、たまに児童文学で、あとは教科書だけだ。だからそんなに数はこなしてなくて、名作とか全然手をつけてないし、偏ってる。

誰も邪魔しないためにそうしていて、そうしていれば誰にも邪魔されなかった。だからそれでいいはずだったのに、そうもいかなくなってる気がする。代表にはなれないよ。なにとか聞かれても困るし。書店員やってたけど、落ちこぼれだし。

ここのところ、長い文章がいっさい読めないというか、文章を受けつけなくなっていたが、ここ何日がそんなこともないので、今なら少し読めるかもしれない。

一から十まで懇切丁寧に書かれていないとダメ、という風潮は好きではない。「そう書いてないから間違い」じゃない。はっきり書いてないからこそ浮かび上がることもあるはずと思っている。

数学の問題を解くときに補助線を引くときがある。その補助線が適切に引いてあれば、はっきり情報を提示しなくても導き出せるわけで。その適切な補助線が小説で言うところの描写なんだと思っている(わりと最近そう思うようになった)。

上手い人はそれが上手いのだろう。上手くない人は引っ掛かりが多すぎて、たくさん書いてあるのに読めなかったりする。

そのへんを上手く詰めてあるのが、良し悪しに繋がってるんじゃないかなあ。

必要に迫られていろいろ読む季節になったから、そんなことを考えているのかもしれない。もうちょっと速く読めるようになれればいいんだけど。